前面がガラス張りのその店は、緩やかな傾斜のバス通りから店内の様子が良く見えた。 ウッド調の内装、入口から左側はたくさんの花で無数の色が溢れ返り、右側のカフェスペースは通りの並木が程よく日差しを和らげて、内装と同じく無垢材のテーブルとイスが並べられている。 高校三年生の時、志望大学のオープンキャンパスに向かう途中で、私はそのカフェに目が釘付けになった。 大学までは、バスがある。 けれど歩けないほどでもなく、少し早めに家を出たための時間潰しにと徒歩で向かっていた。「あ、明日がオープンかぁ」扉に貼られた張り紙を見て、肩を落とした。 ガラスを通して見える店内の様子は、左側がカフェの装飾というには余りに花に溢れている。 不思議に思ってもう一度張り紙に視線を戻すと、明日の日付にOPENの文字。 そして、『花屋カフェflower parc』と書かれていた。―――あ、こっちはお花屋さんなんだ。出入り口の左側がきっと、花屋としてのスペースなんだろう。 花は種類ごとに分けて入れられ花の名前と値段が書かれたポップが貼られていた。 よく見ると、まだ何も置かれていない空いたスペースもある。 きっと開店当日の明日にはそのスペースも花で埋められる。 右側のカフェスペースとは中央のレジのあるスペースで分けられているが、遮るものは少ない。 あのテーブル席から、この花で溢れたスペースはきっとよく見えるだろう。 ―――こんなにたくさんの花を見ながら、お茶を飲めるなんて。元から花が大好きな私は想像しただけで胸が躍って、明日のオープンにもう一度来てみようか、なんて。 その時の私は、考えていた。*** 「結局、そのオープンの日には来なかったんですけどね」「へえ。それはなんで?」「大学に受かったら、来ようと思って! 願掛けのつもりだったんです」店内には、静かにクラシックのBGMが流れている。私がこの店に一目ぼれしたのはもう一年以上前の話で、その時の感動を思い出しながらついうっとりと熱弁してしまっていた。 相槌を打ってくれている厨房スタッフの片山さんは、白い制服姿で客用スツールに腰かけている。私はカウンターの中で、プラスチックの平たい番重からケーキをガラスのショーケースに移していた。「あ、じゃあ綾ちゃんって大学生? てっきりフリーターだと」「……フリーターで
「すみません。どんくさくって」たったあれだけの作業で手間取ってしまって、きっと呆れられた。恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じながら俯いていると、くすくすと笑い声が上から落ちてくる。「仕方ないよ、まだ一週間だし……何より、教えてくれるはずのマスターがアレだしね」「はあ……」笑ってくれたことに少しホッとしたのと、『アレ』と含みを持たせた言い方に私もつい苦笑いを浮かべてしまう。確かに……とカウンター奥の階段に目をやる。階段が続く二階は住居スペースになっているらしい。このカフェのマスターである一瀬さんはそこで暮らしていて開店の十分程前に降りてくる。「教えるとかほんと向いてないよな、あの人」「いえ……そんなことは。私が気が利かないだけで」一応、マスターの顔を立ててそう言ったけど、零れる苦笑いは隠せない。確かに、あの人は教えるつもりがないのか、もしくは「見て覚えろ」とスパルタ系の人なのかと思ってしまうほど、バイト初日からほったらかしだった。見兼ねた片山さんが厨房から出てきて指示を出してくれるまで、私はおろおろとマスターから数歩離れた距離を保ってついて回るだけだった。『わかんないこととか、何したらいいか、とか、ちゃんと口に出して聞けばいいよ。男ばっかで聞きづらいかもしれないけど』片山さんがそう私に声を掛けてくれて、そのことで漸く気付いてくれたらしい。『じゃあ、伸也君。三森さんに仕事を教えてあげてください』きっとその瞬間まで、『教える』という事項はマスターの頭の中になかったんだと思う。「じゃあ、って。バイト初日の子が居たら普通、何からしてもらおうかくらい考えとくもんだよな」「あはは。研修資料とか指導カリキュラムとか、そういうのはないんでしょうか?」「ないない。そんなんあったら前のバイトの子も辞めてない」初日のことを思い出して二人で含み笑いをしていると、階段から足音が聞こえて二人同時に肩を竦めた。「おはようございます、伸也君、三森さん」「おはようございます、マスター」白いシャツの男性が階段を降りてくるのが見えて、私はぺこりと九十度のお辞儀をする。比べて、片山さんは「っす」とか語尾だけが聞こえた挨拶にもならない音を発しただけでするりと厨房に入っていった。マスターと二人取り残されて、一瞬の沈黙に私は忙しなく思考回路を働かせる。なぜだか
「ほらね、暇だったっしょー」夕暮れ時、天気の良い今日は西日が強い。日よけにサンシェードを天井から半分ほど下げて、それでも陽射しは暖かく店内に入り込み店の中も外も同じオレンジ色に染めてしまう。透明な光に、徐々に橙色が滲み始めるのをのんびりと見ていられるのは、暇だから故、なのだけど。「や、でも! お昼時はちゃんとお客さん入ったじゃないですか!」「そりゃ昼もゼロじゃ話にならないでしょ」カウンターに設置されている客用のスツールで片山さんはくるくると周りながらそんな話をする。私達の休憩用のコーヒーを淹れながら無言のマスターが気になって取り繕う言葉を探すけれど、見つからない。「どうぞ」ことん、ことんとカップが二つ、カウンター越しに置かれる。「ありがとうございます」とそのうちの一つを手に取ってマスターを見上げると、片山さんの言葉なんか何も気にした様子でもなく、目を閉じて自分のカップに口を付けていた。ほっとすると同時に、少し残念だった。マスターは、この現状をどうにかしようとは考えないのだろうか。視線を逸らして、店内を見渡す。コーヒーの香り漂う、静かな店内。素敵な店内だけれど、あのオープン前のように花に溢れたスペースは明らかに減っている。花は売れなければ処分するしかない。コストがかかることもあり、余りたくさん仕入れることが出来なくなってしまったらしい。お客さんが入ればある程度の時間までは延長するけれど、ゼロなら夕方六時で閉店。この辺りは大学やオフィスが多くて、ランチのお客様を逃せば夜は余り客入りは見込めない。どうしても、お酒やしっかりした食事の出る店に客足は向いてしまうからだ。壁の時計を見上げれば、ちょうど六時を指していた。「あっ。今日もお迎えがきたよお姫様」片山さんの言葉に、私はくるんと振り向いて店の外に目を向ける。ガラスの向こうに、背の高いすらりとした立ち姿を見つけて、私は小さく手を振った。「毎日毎日、過保護な彼氏だよねえ」「えっ、やだ、違いますよっ! ただの幼馴染ですっ!」片山さんにからかわれて慌てて否定するけれど、熱くなっていく顔は止められなかった。これ以上からかわれまいと、カップに残ったコーヒーを慌てて飲み干す。まだ少し熱かったせいで、喉からお腹の中まで熱が通って、ぎゅっと目を閉じて堪えた。そんな私はやっぱりから
「咲子が駅で待ってる。一緒に外で食事しようって」「お姉ちゃんが? あ、そうか。今日……」「お父さんとお母さんデートみたいだから夕飯ないんだって」「うん、昨日そんなこと言ってた」うちの両親は、未だにすっごく仲が良くて私達が高校生になった頃から月に一度は夜にデートに出かける。そんな日は、姉がご飯を作ってくれたり外に食べに行ったり、そして大抵お隣に住む悠君も一緒。悠君の家は両親共に仕事で遅くまで帰って来ないことが多く、子供の頃からよくうちにご飯を食べに来ていた。駅に着くと、お姉ちゃんがいち早く私達を見つけて片手を上げる。ふわりと花が咲いたみたいに優しく笑う姉に、私は駆け寄った。「綾、おつかれ」「お待たせ、お姉ちゃん!」「そんなに待ってないわよ」言いながら、手の中にあった小説を鞄に仕舞い込むと私から悠君へと視線を流す。悠君は私よりも少し後ろについて来ていた。「悠君、ありがとう。そんなに毎日迎えに行かなくても、綾も子供じゃないんだし」「わざわざ、ってわけじゃないよ。大学の帰りに寄ってるだけ」「毎日こんな遅い訳ないでしょ? 相変わらず綾には甘いんだから」肩を竦めるお姉ちゃんを、悠君はバツが悪そうな笑顔を浮かべて見下ろす。そうしたら、お姉ちゃんは『仕方ない』とでも言いたげに、苦笑い。―――あ。二人が醸し出す、少し大人びた空気を感じる度に、私は少し疎外感を感じてしまう。だから、二人の間に割り込んで両腕をそれぞれの腕に絡め定位置を陣取った。「悠君は甘いんじゃなくって心配性なんだよ」「どっちも大して変わらないわよ」しっかりした姉と、更に年上の悠君。二人にくっついて回る甘えたの私。幼い頃から変わらない関係図が、この頃少し寂しい。二人が通う大学に、追いかけようとして私だけが落ちて、いつまでも追いつけないのは年の差ばかりでもない気がして。私一人置いてけぼりになりそうな気がして、私はまたつい、甘えてしまう。「何食べる? 私ハンバーグ食べたい」「出た、綾のお子様メニュー。私は和食がいいな」「じゃあファミレスだな」悠君の言葉が合図で、三人同時に歩き出した。右側に絡んだ悠君の腕が暖かくて、さっきの寂しさが少し癒される。いつの頃からか悠君は特別。気が付いたら悠君ばっかり目が追いかけて、他の男の子を意識したこともない。もう、何年越し
そう答えたものの確かに店は暇で、たまに入るお客さんくらいなら一瀬さんが居れば十分だし、最悪片山さんしかいなくても数時間対処できそうなくらい、暇だ。 ホール担当が必要なんじゃないかと思えるのは、精々ランチ時くらいだった。 店の経営状況って大丈夫なんだろうか、とほんの数日勤めただけの私でも心配になるくらいだ。三人でご飯を食べて、家に帰るともう夜九時を回っていた。 ベッドに寝転がって壁の模様を見ながら、姉の言葉を思い出してつい考えてしまう。『なんでバイト募集なんてしてたのかしらね?』私って本当に必要な人員だったのかな。 面接の連絡をした時、余り歓迎されているような声ではなかった気がする。 でも、それは一瀬さんが元々ああいう素っ気ない感じの人だからだと……思う。―――――――――――――――― ―――――――――― どきどきしながら、面接当日私はカフェの扉を開いた。 一番奥の客席に促され、目の前にはやたら整った顔を持つ大人の男の人。 もしかして、何人も面接に来たりしてるのかな? にこりともしないその人に、私は内心でびくびくしていた。「ここまで迷いませんでしたか?」「いえ! 駅から一本道だし、前に来たことありましたから……お客として」「そうですか」そう言うと、後は黙々と私の履歴書に目を通す。―――ほんの一週間前くらいの話なんだけど やっぱり覚えてないよねお客の顔なんて。余りにも素っ気なく感情の見えない店の責任者らしい人物。 私は歓迎されていないのだろうか、と不安になる。 有線から流れるクラシックの音楽と、明るい陽射し。 客として来るなら心地よいその空間に、目を閉じて現実逃避したくなった頃。「……フラワーアレンジ?」問いかけるような声がして、慌てて逃げかけていた思考回路を呼び戻す。 初めて、興味を持ってもらえたような気がした。「あの、母が生け花の先生をしててその影響で。好きなんです、花を弄ったりするのが。花器に生けたりブーケにしたり……生け花って一応型はあるんですけど案外自由で、生け花の基本を押さえておくとアレンジやブーケにも役に立って……その、えっと……趣味の、範囲ですけど」自分の得意なことをアピールするのは、なぜだか気恥ずかしいものがある。 だけど、フラワーアレンジに目を留めてくれたことが嬉しくてつい夢中で語っ
「それ……捨てちゃうんですか?」「ええ、もう傷んでしまっているので」淡々とした口調に、少し胸がずきりと痛む。それでも、「手伝います」と言って隣に屈んだ。手に取った花は、確かに売り物にはならないだろう、萎びて変色しはじめている花びらが目立つ。……可哀想。ゴミ袋に透けて見える花達を見て、ついて出そうになった言葉を飲み込んだ時、一瀬さんがぽつりと呟いた。「可哀想なことをしました」驚いて、隣の横顔を見る。私と全く同じ言葉を声に出してくれた、その横顔は相変わらず無表情ではあるけれど。「せっかく綺麗に咲いてくれているのに、誰の手にも渡らずに」ほんの少し哀しそうに見えたことが、私は嬉しかった。「あのっ……良かったら、私に任せてくれませんか」そんな横顔を見ていたら、思わずそう声に出してしまった。不思議そうに私を見る一瀬さんに新聞紙を広げてもらうように頼み、私は肩にかけた鞄から花鋏を取り出す。ずっと、出番を待ってた花鋏。一番最初の仕事がこれでは哀しいけれど、これも仕事だ。私は、ゴミ袋に入った花をもう一度新聞紙の上に出し、切り花の姿を保ったままだった花を長さ五センチ程に寸断していく。ぱちん、ぱちんと躊躇うこともなく鋏を使う私に、一瀬さんが眉を顰めた。「三森さん、何を?」「花に対する、せめてもの礼儀です。綺麗に見てもらうために切り花にされた花だから、最後の姿は人目につかないようにって……生け花をしている母に教わったんです」本来、咲いて実を付けて種となって、翌年またたくさんの花を咲かせ命を繋げる。その流れを、切り花として断ち切られてしまった花たち。切り花としての役目を終えたなら、せめて可哀そうな姿は隠してあげなくちゃ。それは、私が母から教わったことで、母はお師匠さんから。生け花をする人全てが、そうしているわけではないと思うけど、その考え方がすごく好きだったから私もそれに倣っている。「……手伝います」一瀬さんが、作業台から花鋏を取って隣に座り込んだ。そして私と同じように、ぱちんと鋏を鳴らす。「あっ……すみません。私、もしかして仕事を増やしてしまったかも……」考えてみれば、家で生け花をしているのとはわけが違う。店舗なんだから、売れなければ始末しなければいけない花の量は半端じゃない。「いえ、とても良いと思います。私には考えも及びま
出過ぎたことを言ったんじゃないかと少し後悔しながら一瀬さんの反応を待っていたけれど、彼はあっさりと了承してくれた。「花の扱いについては、君に任せます」「えっ? あ、ありがとうございます!」まさか任せるなんて言ってもらえるとは思っていなかったから、不意のことで背筋が伸びる。やっと花で役に立てそうな予感がして、嬉しい反面少し緊張も抱える私に。「それと、三森さん。ブーケなんかは作れますか?」一瀬さんは、更に緊張するようなことを、言い出した。「趣味の範囲でならありますけど……売り物にするようなものは」「お願いしたいことがあるんです」売り物にしたことは、ないんだけどなー……。という、私の主張は、綺麗に流されてしまったみたい。程なくして片山さんが出勤して、ケーキの番重から冷蔵のガラスケースにケーキを移す。その間に私と一瀬さんは開店準備を整えて、オープンまでに少しの時間を作った。「折角の花屋カフェですから。それを活かした何かを作れないかと思いまして、ずっと考えていたんです」一瀬さんと片山さん、私とカウンターを中心にそれぞれ思う場所にいる。私と片山さんはカウンター内の丸椅子に腰かけて、一瀬さんは作業台に腰を凭せ掛けていた。一瀬さんが私にお願いしたいことというのは、スィーツのプレートとセットにして出せるくらいの、極々小さなブーケの製作だった。「スィーツのプレートとセットですから、ミニブーケには殆ど予算はとれないんですが……」「えっ、じゃあ今朝みたいに処分する切り花からってことですか?」「いえ、売り物なんですからそれはしません。ですが、とても小さなものでお願いしてブーケの方からは採算は期待しません」「ってか、ただボケーッとしてるだけかと思ってたけど。ちゃんと考えてたんだ」それまで黙って聞いていた片山さんの突っ込みに、私と一瀬さんの視線が集中する。一瀬さんは特に表情を変えることもなく。「当然です。これでもマスターですから」と言い、私は可笑しくて口元を抑えて笑った。片山さんは何かと一瀬さんに突っかかる物言いをするけれど、どうやらそれが二人のスタンスらしくて、少しずつ私もその雰囲気に慣れてきた。「伸也くんには、ブーケとセットで目を引くようなプレートを考えて欲しいのですが」「それはいいけど、新しいこと始めても客が来なけりゃ意味ないよ」「
じと、と拗ねたような表情で睨まれて肩を窄めて小さくなった。そんな、怒らなくても。スーツ姿を想像して、似合うなあと思っただけなのに。……想像の中のマスターがやっぱり無表情だったことに、うっかり笑っちゃっただけで。「俺に図星刺されて綾ちゃんに笑われたからって八つ当たりしなくてもいいだろ。ねー綾ちゃん?」「え? 八つ当たり?」「違います。話を逸らさないで、バレンタインプレートの試作、早めにお願いしますね」そう言って一瀬さんは会話を締めくくり、そんな様子を片山さんは「逸らしてんのはどっちだか」と肩を揺らして笑った。一瀬さんの言葉がゴーサインとなって、ミニブーケとスイーツのセットメニューはバレンタイン限定プレートからスタートすることに決まり。「それじゃ、オープンしてきます」今日も一日が始まる。壁の時計を見ればもう開店時刻になっていて、私は扉を開けて外のプレートをひっくり返した。冷たい風に首を竦めながらすぐに店内に戻り、カウンター下の収納内を覗く。消耗品のチェックをしながら頭の中はすっかりお花畑だ。一瀬さんから聞かされてすぐは、緊張でいっぱいいっぱいだったけど、今は頭の中では記憶に残る花が次々と並べられて組み合わされている。どんな花がいいだろう。スイーツのプレートもどんなのができるのか先に見てみたいな。「幼馴染に食いに来てもらってさ、告白したら?」「へっ?!」想像をめぐらせていたら後ろから声がして、振り向くと厨房との境目のカウンターで片山さんが肘をついて此方を覗いていた。告白っ?悠くんに……。今まさに自分が想像の中で作っていたブーケと一緒に、悠くんと私の姿が頭に浮かぶ。ぼんっ、と音がしたような錯覚に陥るくらい、顔の熱が急上昇した。そんな私を見て片山さんが、にやぁと楽しそうに唇を歪める。「客の中にも、ここで告白してカップルが生まれることもあるかもね。綾ちゃんもやってみたら?」「いえっ、だって! バレンタイン当日は私だってここで働いてるわけだしっ?」慌てて否定した。だって、仕事中にそんなことできないし!でも。頭に浮かんだ想像図が、消えてくれない。イベントのプレートを御馳走して、帰り道に改めて告白するなら、問題はないはず。例え良い返事はもらえなくても、少しは私を意識してもらえるかもしれない。ブーケに集中しなくてはいけ
翌日、一瀬さんにお願いして、お店にあるラッピング素材やショップバッグを見せてもらった。大体のものは揃っていて、ミニブーケに使うショップバッグの束を現物で目の前に差し出される。良かった、ちゃんと考えてくれてたんだ。ホッとしながら束から一枚抜き出して広げてみる。マチもしっかりあるし、充分使えそうだった。「どうですか?」「充分です、ありがとうございます」「お店にあるラッピング素材は全部好きに使ってくださっていいですよ」「はい!」リボンにフィルムにペーパー、ショップバッグ。それらにかかるコストのことを考えると、余り高価な花は使えない。一瀬さんはカフェスペースへと戻り、カウンター内でグラスを磨き始めた。私は花の陳列をくるりと見渡して、様々な組み合わせを頭の中でシミュレーションする。バラは人気はあるけど高くて使えないし……ガーベラとか?スプレーマムも可愛いけど。自分の世界に入ってぶつぶつと呟いていると、厨房から出てきた片山さんの私を呼ぶ声がした。「綾ちゃーん! ちょっとこれこれ」片山さんが手にお皿を乗せてちょいちょいっと手招きするのが見え、呼ばれるままに近づく。「はあい。なんですか?」「はい。味見係」「うわ、可愛いっ」片山さんの手には白いお皿があり、可愛い小さ目のフォンダンショコラがデコレーションされていた。「はいどーぞ」とカウンターのスツールに促されて反射的に座ってしまった。仕事中なのにいいのかな、と戸惑って一瀬さんを見ようとしたけど、目の前に可愛いプレートが置かれて一瞬で目が釘付けになる。真っ白な四角のディッシュの中央にフォンダンショコラ。ラズベリーソースで絵を描くように、細い曲線や水玉模様でディッシュが飾られ緩く泡立てた生クリームが添えられている。それだけじゃなく、ハート型のチョコレートとトリュフ、チョコレートガナッシュが皿の隅に三つ並んでいた。「すっごく可愛いです、美味しそう!」「良かった。まずはウチのお姫様にご試食願おうと思って」「お姫様って」どうぞ、とデザートフォークを差し出される。お姫様扱いなんて当然されたことはないからどう受け流していいかわからない。なんだか気恥ずかしくて苦笑いしながらフォークを受け取った。顔が熱いです、片山さん。「客の大半は女だろうしね、女の子の意見を聞くのが一番」「えっ、
悠くんと二人、駅から家までの道を歩く。少し高台にある住宅地からは、下を見下ろせる展望台のようなスペースがあった。真冬の空はまだ早い時間からもうすっかり闇色で、空にも地上にも人工と天然のキラキラが散りばめられている。小さい頃から、ずっと一緒に見てきた景色を目の前に、私は不思議と緊張しなかった。「あのね、悠君。二月十四日、時間ある?」「バレンタイン当日?」「そう! あのね、お店でバレンタイン限定プレートを出すことになって」今は誰とも付き合ってない、と確信はあったけど。もしも悠くんに気になる人や仲の良い人がいたら、という可能性を私は少しも意識してなくて、当然空いてるものだと思っていた。「それでね。バレンタインプレート、悠くんにも食べて欲しくて」「もしかして御馳走してくれるってこと?」「そう!」悠くんは、すぐに「いいよ」と頷いてくれるものと思ってた。けど、ほんの少しの間が生まれて私は首を傾げる。「悠くん?」「ん? ああ、大丈夫。わかったよ」不自然な間は一瞬で悠くんの笑顔でかき消されて、私はすぐに忘れてしまった。「じゃあ、その日は閉店より少し早めに迎えに行くよ」「うん、来て来て!」多分悠くんには、毎年あげてる義理チョコと同じ程度にしか伝わってない。でも、今はそれでいい、ちゃんと告白するのはその夜なんだから。良い返事が欲しいだとか、悠くんと付き合ったら、だとか。不思議とそういう考えは余りなくて、それは多分今までがずっと妹みたいな扱いだったから。まずはそこからの脱却が必要だって、自分でも十分わかってたからだと思う。悠くんとバレンタイン当日の約束をすることが出来て、私は改めてブーケ作りに関して母に相談した。売り物にするんだから、やっぱりちゃんと長持ちするようにしてあげないといけないし、案外細かいところが人に指摘されるまで気が付かなかったりする。「確かにスイーツとブーケ、並んでたら可愛いし写真に収めても見栄えするからいいとは思うけど、ブーケは持って帰るんでしょ?」リビングのテーブルで、コーヒーカップを目の前に母が腕組みをして少し難しい顔をした。「そりゃ、勿論……」「持ち帰りのこととかも考えないと、下手したらクレーム来るわよ」意味がわかってない私に、母が呆れたように溜息をついた。最初は花の組み合わせや色、水揚げなど保持のこ
じと、と拗ねたような表情で睨まれて肩を窄めて小さくなった。そんな、怒らなくても。スーツ姿を想像して、似合うなあと思っただけなのに。……想像の中のマスターがやっぱり無表情だったことに、うっかり笑っちゃっただけで。「俺に図星刺されて綾ちゃんに笑われたからって八つ当たりしなくてもいいだろ。ねー綾ちゃん?」「え? 八つ当たり?」「違います。話を逸らさないで、バレンタインプレートの試作、早めにお願いしますね」そう言って一瀬さんは会話を締めくくり、そんな様子を片山さんは「逸らしてんのはどっちだか」と肩を揺らして笑った。一瀬さんの言葉がゴーサインとなって、ミニブーケとスイーツのセットメニューはバレンタイン限定プレートからスタートすることに決まり。「それじゃ、オープンしてきます」今日も一日が始まる。壁の時計を見ればもう開店時刻になっていて、私は扉を開けて外のプレートをひっくり返した。冷たい風に首を竦めながらすぐに店内に戻り、カウンター下の収納内を覗く。消耗品のチェックをしながら頭の中はすっかりお花畑だ。一瀬さんから聞かされてすぐは、緊張でいっぱいいっぱいだったけど、今は頭の中では記憶に残る花が次々と並べられて組み合わされている。どんな花がいいだろう。スイーツのプレートもどんなのができるのか先に見てみたいな。「幼馴染に食いに来てもらってさ、告白したら?」「へっ?!」想像をめぐらせていたら後ろから声がして、振り向くと厨房との境目のカウンターで片山さんが肘をついて此方を覗いていた。告白っ?悠くんに……。今まさに自分が想像の中で作っていたブーケと一緒に、悠くんと私の姿が頭に浮かぶ。ぼんっ、と音がしたような錯覚に陥るくらい、顔の熱が急上昇した。そんな私を見て片山さんが、にやぁと楽しそうに唇を歪める。「客の中にも、ここで告白してカップルが生まれることもあるかもね。綾ちゃんもやってみたら?」「いえっ、だって! バレンタイン当日は私だってここで働いてるわけだしっ?」慌てて否定した。だって、仕事中にそんなことできないし!でも。頭に浮かんだ想像図が、消えてくれない。イベントのプレートを御馳走して、帰り道に改めて告白するなら、問題はないはず。例え良い返事はもらえなくても、少しは私を意識してもらえるかもしれない。ブーケに集中しなくてはいけ
出過ぎたことを言ったんじゃないかと少し後悔しながら一瀬さんの反応を待っていたけれど、彼はあっさりと了承してくれた。「花の扱いについては、君に任せます」「えっ? あ、ありがとうございます!」まさか任せるなんて言ってもらえるとは思っていなかったから、不意のことで背筋が伸びる。やっと花で役に立てそうな予感がして、嬉しい反面少し緊張も抱える私に。「それと、三森さん。ブーケなんかは作れますか?」一瀬さんは、更に緊張するようなことを、言い出した。「趣味の範囲でならありますけど……売り物にするようなものは」「お願いしたいことがあるんです」売り物にしたことは、ないんだけどなー……。という、私の主張は、綺麗に流されてしまったみたい。程なくして片山さんが出勤して、ケーキの番重から冷蔵のガラスケースにケーキを移す。その間に私と一瀬さんは開店準備を整えて、オープンまでに少しの時間を作った。「折角の花屋カフェですから。それを活かした何かを作れないかと思いまして、ずっと考えていたんです」一瀬さんと片山さん、私とカウンターを中心にそれぞれ思う場所にいる。私と片山さんはカウンター内の丸椅子に腰かけて、一瀬さんは作業台に腰を凭せ掛けていた。一瀬さんが私にお願いしたいことというのは、スィーツのプレートとセットにして出せるくらいの、極々小さなブーケの製作だった。「スィーツのプレートとセットですから、ミニブーケには殆ど予算はとれないんですが……」「えっ、じゃあ今朝みたいに処分する切り花からってことですか?」「いえ、売り物なんですからそれはしません。ですが、とても小さなものでお願いしてブーケの方からは採算は期待しません」「ってか、ただボケーッとしてるだけかと思ってたけど。ちゃんと考えてたんだ」それまで黙って聞いていた片山さんの突っ込みに、私と一瀬さんの視線が集中する。一瀬さんは特に表情を変えることもなく。「当然です。これでもマスターですから」と言い、私は可笑しくて口元を抑えて笑った。片山さんは何かと一瀬さんに突っかかる物言いをするけれど、どうやらそれが二人のスタンスらしくて、少しずつ私もその雰囲気に慣れてきた。「伸也くんには、ブーケとセットで目を引くようなプレートを考えて欲しいのですが」「それはいいけど、新しいこと始めても客が来なけりゃ意味ないよ」「
「それ……捨てちゃうんですか?」「ええ、もう傷んでしまっているので」淡々とした口調に、少し胸がずきりと痛む。それでも、「手伝います」と言って隣に屈んだ。手に取った花は、確かに売り物にはならないだろう、萎びて変色しはじめている花びらが目立つ。……可哀想。ゴミ袋に透けて見える花達を見て、ついて出そうになった言葉を飲み込んだ時、一瀬さんがぽつりと呟いた。「可哀想なことをしました」驚いて、隣の横顔を見る。私と全く同じ言葉を声に出してくれた、その横顔は相変わらず無表情ではあるけれど。「せっかく綺麗に咲いてくれているのに、誰の手にも渡らずに」ほんの少し哀しそうに見えたことが、私は嬉しかった。「あのっ……良かったら、私に任せてくれませんか」そんな横顔を見ていたら、思わずそう声に出してしまった。不思議そうに私を見る一瀬さんに新聞紙を広げてもらうように頼み、私は肩にかけた鞄から花鋏を取り出す。ずっと、出番を待ってた花鋏。一番最初の仕事がこれでは哀しいけれど、これも仕事だ。私は、ゴミ袋に入った花をもう一度新聞紙の上に出し、切り花の姿を保ったままだった花を長さ五センチ程に寸断していく。ぱちん、ぱちんと躊躇うこともなく鋏を使う私に、一瀬さんが眉を顰めた。「三森さん、何を?」「花に対する、せめてもの礼儀です。綺麗に見てもらうために切り花にされた花だから、最後の姿は人目につかないようにって……生け花をしている母に教わったんです」本来、咲いて実を付けて種となって、翌年またたくさんの花を咲かせ命を繋げる。その流れを、切り花として断ち切られてしまった花たち。切り花としての役目を終えたなら、せめて可哀そうな姿は隠してあげなくちゃ。それは、私が母から教わったことで、母はお師匠さんから。生け花をする人全てが、そうしているわけではないと思うけど、その考え方がすごく好きだったから私もそれに倣っている。「……手伝います」一瀬さんが、作業台から花鋏を取って隣に座り込んだ。そして私と同じように、ぱちんと鋏を鳴らす。「あっ……すみません。私、もしかして仕事を増やしてしまったかも……」考えてみれば、家で生け花をしているのとはわけが違う。店舗なんだから、売れなければ始末しなければいけない花の量は半端じゃない。「いえ、とても良いと思います。私には考えも及びま
そう答えたものの確かに店は暇で、たまに入るお客さんくらいなら一瀬さんが居れば十分だし、最悪片山さんしかいなくても数時間対処できそうなくらい、暇だ。 ホール担当が必要なんじゃないかと思えるのは、精々ランチ時くらいだった。 店の経営状況って大丈夫なんだろうか、とほんの数日勤めただけの私でも心配になるくらいだ。三人でご飯を食べて、家に帰るともう夜九時を回っていた。 ベッドに寝転がって壁の模様を見ながら、姉の言葉を思い出してつい考えてしまう。『なんでバイト募集なんてしてたのかしらね?』私って本当に必要な人員だったのかな。 面接の連絡をした時、余り歓迎されているような声ではなかった気がする。 でも、それは一瀬さんが元々ああいう素っ気ない感じの人だからだと……思う。―――――――――――――――― ―――――――――― どきどきしながら、面接当日私はカフェの扉を開いた。 一番奥の客席に促され、目の前にはやたら整った顔を持つ大人の男の人。 もしかして、何人も面接に来たりしてるのかな? にこりともしないその人に、私は内心でびくびくしていた。「ここまで迷いませんでしたか?」「いえ! 駅から一本道だし、前に来たことありましたから……お客として」「そうですか」そう言うと、後は黙々と私の履歴書に目を通す。―――ほんの一週間前くらいの話なんだけど やっぱり覚えてないよねお客の顔なんて。余りにも素っ気なく感情の見えない店の責任者らしい人物。 私は歓迎されていないのだろうか、と不安になる。 有線から流れるクラシックの音楽と、明るい陽射し。 客として来るなら心地よいその空間に、目を閉じて現実逃避したくなった頃。「……フラワーアレンジ?」問いかけるような声がして、慌てて逃げかけていた思考回路を呼び戻す。 初めて、興味を持ってもらえたような気がした。「あの、母が生け花の先生をしててその影響で。好きなんです、花を弄ったりするのが。花器に生けたりブーケにしたり……生け花って一応型はあるんですけど案外自由で、生け花の基本を押さえておくとアレンジやブーケにも役に立って……その、えっと……趣味の、範囲ですけど」自分の得意なことをアピールするのは、なぜだか気恥ずかしいものがある。 だけど、フラワーアレンジに目を留めてくれたことが嬉しくてつい夢中で語っ
「咲子が駅で待ってる。一緒に外で食事しようって」「お姉ちゃんが? あ、そうか。今日……」「お父さんとお母さんデートみたいだから夕飯ないんだって」「うん、昨日そんなこと言ってた」うちの両親は、未だにすっごく仲が良くて私達が高校生になった頃から月に一度は夜にデートに出かける。そんな日は、姉がご飯を作ってくれたり外に食べに行ったり、そして大抵お隣に住む悠君も一緒。悠君の家は両親共に仕事で遅くまで帰って来ないことが多く、子供の頃からよくうちにご飯を食べに来ていた。駅に着くと、お姉ちゃんがいち早く私達を見つけて片手を上げる。ふわりと花が咲いたみたいに優しく笑う姉に、私は駆け寄った。「綾、おつかれ」「お待たせ、お姉ちゃん!」「そんなに待ってないわよ」言いながら、手の中にあった小説を鞄に仕舞い込むと私から悠君へと視線を流す。悠君は私よりも少し後ろについて来ていた。「悠君、ありがとう。そんなに毎日迎えに行かなくても、綾も子供じゃないんだし」「わざわざ、ってわけじゃないよ。大学の帰りに寄ってるだけ」「毎日こんな遅い訳ないでしょ? 相変わらず綾には甘いんだから」肩を竦めるお姉ちゃんを、悠君はバツが悪そうな笑顔を浮かべて見下ろす。そうしたら、お姉ちゃんは『仕方ない』とでも言いたげに、苦笑い。―――あ。二人が醸し出す、少し大人びた空気を感じる度に、私は少し疎外感を感じてしまう。だから、二人の間に割り込んで両腕をそれぞれの腕に絡め定位置を陣取った。「悠君は甘いんじゃなくって心配性なんだよ」「どっちも大して変わらないわよ」しっかりした姉と、更に年上の悠君。二人にくっついて回る甘えたの私。幼い頃から変わらない関係図が、この頃少し寂しい。二人が通う大学に、追いかけようとして私だけが落ちて、いつまでも追いつけないのは年の差ばかりでもない気がして。私一人置いてけぼりになりそうな気がして、私はまたつい、甘えてしまう。「何食べる? 私ハンバーグ食べたい」「出た、綾のお子様メニュー。私は和食がいいな」「じゃあファミレスだな」悠君の言葉が合図で、三人同時に歩き出した。右側に絡んだ悠君の腕が暖かくて、さっきの寂しさが少し癒される。いつの頃からか悠君は特別。気が付いたら悠君ばっかり目が追いかけて、他の男の子を意識したこともない。もう、何年越し
「ほらね、暇だったっしょー」夕暮れ時、天気の良い今日は西日が強い。日よけにサンシェードを天井から半分ほど下げて、それでも陽射しは暖かく店内に入り込み店の中も外も同じオレンジ色に染めてしまう。透明な光に、徐々に橙色が滲み始めるのをのんびりと見ていられるのは、暇だから故、なのだけど。「や、でも! お昼時はちゃんとお客さん入ったじゃないですか!」「そりゃ昼もゼロじゃ話にならないでしょ」カウンターに設置されている客用のスツールで片山さんはくるくると周りながらそんな話をする。私達の休憩用のコーヒーを淹れながら無言のマスターが気になって取り繕う言葉を探すけれど、見つからない。「どうぞ」ことん、ことんとカップが二つ、カウンター越しに置かれる。「ありがとうございます」とそのうちの一つを手に取ってマスターを見上げると、片山さんの言葉なんか何も気にした様子でもなく、目を閉じて自分のカップに口を付けていた。ほっとすると同時に、少し残念だった。マスターは、この現状をどうにかしようとは考えないのだろうか。視線を逸らして、店内を見渡す。コーヒーの香り漂う、静かな店内。素敵な店内だけれど、あのオープン前のように花に溢れたスペースは明らかに減っている。花は売れなければ処分するしかない。コストがかかることもあり、余りたくさん仕入れることが出来なくなってしまったらしい。お客さんが入ればある程度の時間までは延長するけれど、ゼロなら夕方六時で閉店。この辺りは大学やオフィスが多くて、ランチのお客様を逃せば夜は余り客入りは見込めない。どうしても、お酒やしっかりした食事の出る店に客足は向いてしまうからだ。壁の時計を見上げれば、ちょうど六時を指していた。「あっ。今日もお迎えがきたよお姫様」片山さんの言葉に、私はくるんと振り向いて店の外に目を向ける。ガラスの向こうに、背の高いすらりとした立ち姿を見つけて、私は小さく手を振った。「毎日毎日、過保護な彼氏だよねえ」「えっ、やだ、違いますよっ! ただの幼馴染ですっ!」片山さんにからかわれて慌てて否定するけれど、熱くなっていく顔は止められなかった。これ以上からかわれまいと、カップに残ったコーヒーを慌てて飲み干す。まだ少し熱かったせいで、喉からお腹の中まで熱が通って、ぎゅっと目を閉じて堪えた。そんな私はやっぱりから
「すみません。どんくさくって」たったあれだけの作業で手間取ってしまって、きっと呆れられた。恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じながら俯いていると、くすくすと笑い声が上から落ちてくる。「仕方ないよ、まだ一週間だし……何より、教えてくれるはずのマスターがアレだしね」「はあ……」笑ってくれたことに少しホッとしたのと、『アレ』と含みを持たせた言い方に私もつい苦笑いを浮かべてしまう。確かに……とカウンター奥の階段に目をやる。階段が続く二階は住居スペースになっているらしい。このカフェのマスターである一瀬さんはそこで暮らしていて開店の十分程前に降りてくる。「教えるとかほんと向いてないよな、あの人」「いえ……そんなことは。私が気が利かないだけで」一応、マスターの顔を立ててそう言ったけど、零れる苦笑いは隠せない。確かに、あの人は教えるつもりがないのか、もしくは「見て覚えろ」とスパルタ系の人なのかと思ってしまうほど、バイト初日からほったらかしだった。見兼ねた片山さんが厨房から出てきて指示を出してくれるまで、私はおろおろとマスターから数歩離れた距離を保ってついて回るだけだった。『わかんないこととか、何したらいいか、とか、ちゃんと口に出して聞けばいいよ。男ばっかで聞きづらいかもしれないけど』片山さんがそう私に声を掛けてくれて、そのことで漸く気付いてくれたらしい。『じゃあ、伸也君。三森さんに仕事を教えてあげてください』きっとその瞬間まで、『教える』という事項はマスターの頭の中になかったんだと思う。「じゃあ、って。バイト初日の子が居たら普通、何からしてもらおうかくらい考えとくもんだよな」「あはは。研修資料とか指導カリキュラムとか、そういうのはないんでしょうか?」「ないない。そんなんあったら前のバイトの子も辞めてない」初日のことを思い出して二人で含み笑いをしていると、階段から足音が聞こえて二人同時に肩を竦めた。「おはようございます、伸也君、三森さん」「おはようございます、マスター」白いシャツの男性が階段を降りてくるのが見えて、私はぺこりと九十度のお辞儀をする。比べて、片山さんは「っす」とか語尾だけが聞こえた挨拶にもならない音を発しただけでするりと厨房に入っていった。マスターと二人取り残されて、一瞬の沈黙に私は忙しなく思考回路を働かせる。なぜだか